回想記 2:肝炎が再発、初期の肝硬変と診断される

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その1年後に肝炎が再発


最初の肝炎発症後、しばらくしてから数値が完全に正常に戻ったため調子にのり、お酒を飲み始めました。いつも通りの生活に戻り、ホッとしていたのでしょう。完全に気を抜いていました。
肝炎のことちゃんと調べずに放って置いたのは、B型肝炎の恐ろしさから目を背けたい気持ちがあまりに強かったのでしょう。

最初の肝炎発症から数カ月たった頃です、また疲れを感じ始めました。尿の色も茶褐色で、ベッドから起き上がるのもつらく、これはダメだと思ったので兄に電話して病院に連れて行ってもらいました。

診察してもらう前から、また肝臓に炎症が起きているのだろうと薄々わかっていたと思います。医者は問診しただけで私の肝臓の状態が想像できのでしょう。病院で精密検査を受けるように言われました。

すぐに地元の中央病院に行って、感染病の専門医に診てもらいました。B型慢性肝炎のキャリアは肝炎が発症したら、治療を始めた方がいいと言われ、ウイルスマーカーと肝生検の検査も早速してもらいました。

検査結果は、ウイルス量は大体6Log copies/ml、肝臓の状態は肝硬変にほぼ近く、肝線維化のステージはF3(高度)からF4(肝硬変)の間という診断がくだされました。肝硬変一歩手前だということです。

この時はさすがに、ヤバイと思いました。

インターフェロンの治療開始、セロコンバージョンに成功

その後は、医者が勧める治療は素直に言われた通りにしました。すぐにインターフェロン(PEGASYS)治療の開始。二週間に一回の注射で済むのはいいのですが、ヨーロッパでは自分で打たなければなりません。もちろん、初回は看護師に教えてもらいましたけど。

この治療は6カ月続きました。

その間にあった副作用は髪が少し抜けたことと、喉が1日中乾いていたことぐらいですかね。疲れなどはなかったです。生活も普段通りで特にこれと言った制限はありませんでした。

治療の目標はHBe抗原が陰性となり、HBe抗体が陽性となるセロコンバージョンです。セロコンバージョンとはHBVが完全に排除された状態ではなく、免疫機構によりその活動性が抑えられている状態を指します。

当時はこのセロコンバージョンを治療の目標にしていましたが、その後もウイルスは増殖を続け、肝炎が進行する人も中にはいることがわかってきました。私がその例です。

六カ月後にはウイルス量が4Log copies/mlまで下がり、セロコンバージョンと診断されました。本当にうれしかったです。

治療中の六カ月間は食生活を見直しました。

  • お酒はもちろん禁止
  • ビタミンA、Cが多い野菜を中心
  • ビタミンEを摂るためにナッツ類を食べる
  • 動物性タンパク質は控える
  • 豆腐、納豆、豆乳などの大豆製品を多く摂る

こうしてみると健康に気を遣っている人にしてみれば当たり前の食生活ですよね。1回目のB型肝炎発症の時点では、私は身長172cmに対して体重が68キロありました。筋肉の重さではありませんよ。ぽっちゃり体形でぜい肉がたくさんついていました。

それが、この食生活に変えてから徐々に体重が減り、62キロぐらいまで落ちました。

もう一人、子供がほしい

インターフェロンの六カ月の治療が終わり、ウイルス量が減り、肝臓の機能が正常値に戻りました。医者はこの時点ではすぐに次の治療は始めずに様子を見ようということに決めました。

肝機能が正常に近い状態に戻ったので、妻と将来について話せる余裕が出てきました。しばらくしてから、二人とも子供をもう一人欲しいと思うようになったのです。

もちろん、ウイルスが暴れ始めて治療を開始するかもしれません。治療薬の効き目がなくなり、ウイルスがすべての薬に対して耐性を持つ日が来るかもしれません。肝硬変や、肝ガンになる可能性もあります。正直どれくらい生きられるのか未知数です。

子供は欲しいけど、本当に大丈夫なのだろうか?自分にもしものことが起きたら、彼女1人で子供二人を育てられるのか?あれこれと疑問が出てきます。

一応、妻も働いています。住む家もあります。私が亡くなった場合、生命保険がおりて、家のローンを返済してくれるので彼女1人の給料でもなんとかやっていけます。しかし、彼女1人で働きながら子供二人を育てられるのかが心配でした。

それでも、彼女は「逆に子供がもう一人いた方が家族の絆が強くなる。2人よりも3人で協力しあって生きていく方がいい。」そう言いました。次の問題は、生まれてくる子供に薬による影響はないのかどうかです。

早速、医者に相談しました。インターフェロンの治療後四カ月ほど間を置けば、別に異常はないと言われたのでホッとしました。結婚した時に、子供三人は欲しいと妻と話していたので、もし自分の病気のせいでこれ以上子供が作れなかったら、妻には申し訳ないと思っていたからです。

この時点で私は年齢31歳。むちゃはせず、肝臓に負担をかけないようにし、とにかくできるだけ長生きできることだけに専念しようと心に決めました。少なくとも子どもたちが成人するまでは。

妊娠と錠剤による治療開始

あの頃の私たちにとって、時間はとても貴重でした。作るなら、できるだけ急がなければなりません。この先いつまた、自分の肝臓がどのようになるかはわかりません。インターフェロンの治療を開始するかもしれないし、私の身に何が起きてもおかしくありません。

効率よくするために、ちょっと生々しいかもしれませんが妻は毎日体温を測り、生理の周期をグラフにしていました。そのかいがあって、すぐにうまく第二子の妊娠に成功!

妊娠がわかって一カ月もたたない頃に、毎月の血液検査でウイルス量が増えていたことがわかりました。このままでは肝炎が進むので、医者から今度はB型肝炎ウイルス増殖抑制剤、ラミブジン(ゼフィックス)を飲むように勧められます。この時点でもまだ、医者に治療法に対して何も疑問に思わず、言われた通りに飲んでいました。

ゼフィックスを飲み始めてからは数カ月に一度、ウイルスマーカーの検査をしていました。9カ月目を過ぎた頃から、またウイルス量が少しずつ増え始めました。ウイルスが薬に対して耐性が出てきたと医者が判断し、すぐにアデホビル(ヘプセラ)に切り替えました

結果から言えばこの薬も結局長続きしませんでした。医者からはB型肝炎ウイルス増殖抑制剤はそんなにいくつもないと言われていたので、もしウイルスがすべての薬に耐性を持つようになったら、どうなるのだろうかと考えると恐ろしくなります。

二人目を出産!しかし…

私がウイルスと格闘している中、おなかの赤ちゃんすくすくと成長し、私が31歳の時に生まれました。肝炎の発症、インターフェロンの治療などの苦労をえて、覚悟を決めてから授かった赤ちゃんです。長女の出産も最初の子供なので感動しましたが、次女の出産はまた違った意味で特別なものでした。

常に肝臓に爆弾を抱えている状態ですが、そんなことは忘れていました。家には二歳になる長女と生まれたばかりの次女がいる。家の中は赤ちゃんの泣き声と長女のはしゃぐ声で響いていました。赤ちゃんを抱っこしてあげたり、長女に絵本を読んであげたり、一緒に童謡を歌ったり、子どもたちと過ごしている時間はとても幸せでした。

子どもたち2人の寝顔をずっと眺めていても飽きませんでした。

本当に幸せでした。

しかし、幸せは長続きしないものですね。次女が生まれてから5カ月ほど過ぎた頃、肝臓にガンが見つかりました。

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